4月19日、義母が旅立った。
余命半年と聞いていたから、覚悟はしていた。
それでも、やっぱり、胸のどこかがしん…とする。
1年前の春、義兄から連絡が入った。
「お母さんが緊急入院。膀胱がん。余命半年」
長崎に住む義母のもとへ、すぐに行く段取りを始めた。
主人は仕事で行けないかもしれない。それなら、私ひとりでも行こうと、職場に有休を出した。
旅の手配なんて、これまで全部、主人任せ。
新幹線やホテルの予約も、自分でやったことなんてなかったのに、その日はなぜか「自分でやらなきゃ」と思って、仕事の合間にスマホとにらめっこ。
予約ひとつ取るのに、まるまる半日かかった。
サイトを見て、時間を確認して、また見直して…
やっと予約が取れた頃、主人がぽつりと
「俺も行くよ」って。
そこで「お願い」と頼めばすぐ終わったのかもしれないけど、なぜか意地になって、ふたり分のチケットを私が取りきった。
お昼の12時半。予約完了。
不慣れな私にしては、上出来。
そんなふうにして、義母に会いに行った長崎。
今すぐどうこうということじゃなかったけど、どうしても、今行っておきたかった。
理由は、よくわからない。ただ、そうしなきゃと思った。
長崎に着くと、義兄が迎えに来てくれて、病院へ直行。
面会時間は10分。待合室で待っていると、ひらひらと手を振りながら義母が現れた。
やせこけているわけでもない
車椅子でもない
点滴もしていない
明るい花柄のパジャマ姿で
「よー来てくれたねぇ。あんたたち、仕事あったろうに…ごめんねぇ」
義母に会い、なんて声かければ良いか悩んでいたのに、義母から出たのは“ごはんの話”。
「病院のご飯は美味しくなかよ。今度来る時、海苔持ってきて」
それが義母らしくて、なんだか笑ってしまった。
「親に会わせたい」と言われて、長崎のご実家を訪ねたのは30年前。
義父は高校の先生で、私と同じ職業。
義母はとてもおしゃれでモダンなマダム。
美容にも健康にも気を遣っていて、帰省するたびに私の体調や心の状態を、さりげなくチェックしてくれていた。
病院へ駆け付けてから半年後の正月。
再び会った義母は、すっかり姿が変わっていた。
体はやせ細り、杖をつき、髪の毛も抜けて、ニット帽をかぶっていた。
「ああ、もう、次はないかもしれない」
そう思った。
案の定、その1週間後に再び緊急入院。
義兄からは電話で様子を聞くしかなかった。
「もう歩けんとよ」
「帰りたいって、泣くんよね」
「家に帰らせるけんね。家で看取ることになるかもしれん」
その言葉のひとつひとつが、胸にずしりと響いた。
義兄には、もう感謝しかない。
介護しながら仕事をするなんて、並大抵のことじゃない。
そしてこの頃から、義父にも少しずつ変化が出てきた。
電子レンジの使い方がわからなくなっていた。
軽い認知症だった。
春休みに入り、私は長崎の実家に1週間泊まり込み、義母のそばにいた。
「お母さん、来たよー」
「ああ、来てくれたんね。うちのお嫁さんは、優しかねぇ」
その言葉が、じんわりと胸に沁みた。
義母は前向きだった。
「桜を見たいけん、早く元気にならんと」懸命にがんばっていた。
その姿を見ているだけで、涙が出そうになった。
でも、泣くのは義母の前じゃないと決めていた。
帰る前日の夜、義母は高熱を出して、また入院に。
入院する前、義母がこう言った。
「あんたはよか嫁よ。また正月、来なさいねぇ」
もう、こらえていた涙が勝手にあふれてきた。
止めようとしても、止まらなかった。
そして数日後の早朝。
義兄からのLINE。
「お母さんが亡くなりました。」
なぜか、その時は涙が出なかった。
最後の姿が、私の中でずっと生きていて、時が止まったままだったのかもしれない。
思い返せば、私に子どもが生まれたときも、義母はすぐに大阪まで来てくれた。
私の子育てに口出しすることもなく、でもちゃんと見守ってくれていた。
そういう“何気ない手”に、私は何度も救われた。
だからこそ、私はあの春、長崎に行けたんだと思う。
オムツを替え、やせ細った体を拭き、ご飯をスプーンで運び、手を握って、そばにいられた。
あの時間は、きっと一生忘れない。
葬儀の日、花を手向けながら、私は義母に伝えた。
「お義母さんの娘にしてくれて、ありがとう」
きっと義母なら、こんなふうに言ってくれる気がする。
「女はね、美しくないとダメけんね。口角あげて、笑っときなさい。そしたら、きっといいことあるけんね。」
コメント